被験体たちに関するメールを見て以降、私の日常は禍々しく変わった。
『自分が勤めている企業が、人体実験を行っている』――その疑念は、日増しに膨らむばかりだった。
私は恐怖を必死で押し込めつつ、今まで通り研究所で働いていた。
急に不審な行動を取れば、研究所側に気づかれる恐れがある。表面上は何も知らないそぶりで、いつものように振舞う。
その仕事の合間に、ヒューロンの過去の行状について調べた。それで出てきた情報は、目を覆いたくなるものばかりだった。
ヒューロンが過去にも、人体実験を行ってきた事。
XMを巡る抗争で、多くの人々を人知れず葬ってきた事。
警備部を使って要人を拉致したり、暗殺してきた事……。
それらはフェイクニュースともとれる、不確かな噂ばかりだ。だが今の私には、その全てが真実に思えた。
被験体たちが消えてから、もう何週間も過ぎている。恐らく彼らはもう生きてはいないだろう。
あの人たちは、全員身寄りがなく、いなくなっても誰も探す者がいない。ヒューロンはそういう人々を選んで、わざわざ日本に集めたのだ。命に関わる実験の、モルモットにする為に。
私が憧れたヒューロンは、人を人とも思わない悪魔たちの棲家だった。研究所の同僚の、誰を信用すればいいかわからない。それまで一緒に働いていた仲間たちが、急に笑顔の仮面を被った殺人者に見えてくる。
上司は確実に信用できないとしても、他に信用できる人はいるのだろうか?
誰が敵で、誰が味方なのか?
それとも私以外は、全員が敵なのか……?
考えてもわからないし、誰に相談する事も出来ない。私は次第に追い詰められていった――。
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一週間が過ぎたある夜。
その日、私はどうしても出勤する気力が湧かず、自宅で独り呆然としていた。
胸には恐怖と疲労と、そして後悔が渦巻いている。被験体を救えなかった事に対する罪悪感が。
(ごめんなさい、皆……! 私はあなたたちを救えなかった……!)
必ず救うと決意したのに、私が彼らを導いたのは、希望の道ではなく地獄だった。
私は救い難いほど愚かだった。ヒューロンを盲目的に信じ、彼らのする事に疑問を持たなかった。
上司たちにいいように利用され、彼らの悪事に加担してしまったのだ。自覚があろうとなかろうと、それは紛れもない事実だった。
(償わなければ……今からでも、被験体たちの為に出来る事を……!)
そう思い、鞄からスマートフォンを取り出す。
警察に通報し、ヒューロンの人体実験について話そう。私に出来る事はそれ以外にない。
110番を押そうとした時、着信が入った。
「!」
私は震える心臓を押さえ、ディスプレイを見た。表示は『着信:劉天華』。不吉な予感を感じつつ電話に出ると、劉の声が響く。
「やぁサラ。聞いたよ、最近疲れているようだね?」
妙に優しい声だった。それが私の恐怖と嫌悪感を掻き立てる。黙り込む私に、劉は続けた。
「いなくなった人々の事は、もう気にしなくていい。彼らは幸せに暮らしている。私が保証しよう」
「……!?」
「私の職務は『被験体の保護』だ。彼らだけではなく、君の身の安全も約束する。いつでも見守っているよ」
私はその言葉にはっとして、部屋の窓を見た。
カーテンがわずかに開いている。その隙間から外を覗くと、宵闇の中に人影が見えた。
人影はスマートフォンを操作しながら、どこかに歩き去っていく。劉ではなく、スーツを着た見知らぬ男だ。
だが私はその男が、劉と無関係には思えなかった。図ったようなタイミングで掛かってきた電話。こちらの行動を予測するような言葉――。
(監視されている……!?)
全身の血の気が引いた。
私は薄暗い部屋の中、独り震えながら、窓の外に広がる闇を見据えていた。